中村隆市です。故・松下竜一さんのことで、多くの皆さんからあたたかいメッセージをいただきまして、ありがとうございました。
ナマクラ会員・関本洋司さんのメッセージに相米慎二さんのことが書かれていました。
> 僕にも何人か忘れがたいひとがいます。
> 台風の季節に思い出すのは、『台風クラブ』という作品を撮った
> 相米慎二という映画監督で、僕は一度、東京学生映画祭の打ち上げで
> 話をしたことがあります。
> 「若い人達が映画を撮れればいい」と、自分のことを考えていない姿勢に
> 衝撃を受けました。
相米監督は、松下さんの映画を撮ろうとしてシナリオを書き上げ、渋る松下さんをようやく説得して、これから撮影に入ろうという段階で、監督自身がガンになり、53歳の若さで亡くなりました。
松下さんからの便りで映画化を知り、楽しみにしていたのでとても残念でした。
松下さんは、幼い時から身体が弱く、病気ばかりしていました。そのためでしょうか、いつも被害を受ける側の立場からものごとを考えるような人でした。環境の破壊や汚染に対しては、被害を最も受ける住民や未来世代の立場から反対していました。
松下さんが発行していた月刊「草の根通信−環境権確立に向けて」は、30年以上も発行され続けました。病気がちだった松下さんは、病院のベッドの上でも通信の編集をしていて、よく医者に叱られていました。九州では、環境運動や平和運動の大黒柱的な存在でした。
近年、松下さんが一番力を入れていたのが、脱原発と反戦運動でした。
毎年8月15日の「終戦記念日」に、憲法9条を守るための意見広告を新聞に掲載する運動は、ことしで22回目になります。
松下さんは、いのちと同時に、こころも大切にする人でした。
はじめて私が読んだ松下さんの本は、電力会社との裁判闘争をユーモアたっぷりに描いた「五分の虫、一寸の魂」という本でした。当時、水俣病や四日市ぜんそくなどの公害病の実態を知り、暗く沈んでいた20才の私は、この本を読んで笑い転げました。そして、松下さんの優しいつよさに惹かれました。
数年前まで松下さんは、毎日2時間近く洋子夫人と散歩をしていました。川の河口で、パンの耳をちぎってカモメに与えたり、ゆっくりと季節の草花などを眺めるのが好きでした。
いつもビンボーだった松下さんが書いた「底抜けビンボー暮らし」という本が、数年前に珍しく売れて、十数年ぶりに税金を納めたことがあります。しかしそれは、1万円にも満たない額でした。
そんなビンボー暮らしを見て、人は洋子さんに「どうしてパートに出ないの」と聞くのですが、「お金より二人の散歩の方が大切」と答えます。
30年以上も前に松下さんは、海を埋め立てて巨大コンビナートをつくる計画に反対し、「環境権裁判」を起こしました。弁護士に頼らず、本人訴訟であたり前のことを訴えました。
「美しい自然を子どもたちや未来世代に残したい」と。
そして、「物質的な豊かさだけを追い求めるのはやめて、少しの間立ち止まろう、ちょっとだけつつましい生活をしよう」と自主停電を呼びかけ、「暗闇の思想」を提唱しました。
100万人のキャンドルナイトの「でんきを消して、スローな夜を」という考え方を30年も前から言っていたのが、松下さんでした。
きょうは七夕ですね。
この一年で、星になった松下竜一さんとカルロス・フランコさん。
環境と平和を願う仲間でもあり、師でもあった2人を想いながら今夜は、友人たちとピースローソクを灯したいと思います。
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